印岐志呂神社
印岐志呂神社(いきしろじんじゃ)
御祭神
大己貴之命
鎮座地
滋賀県草津市片岡町
JR草津駅の北4Kmのところに鎮座され、
境内入り口には標柱が建てられているのでした。
※一の鳥居は帰り道に発見しましたが写真はありません。
神門は瓦葺の四脚門でした。
通常は築地塀などが備わっているのが一般的だと思いますが
こちらは石垣が用いられているようです。
吹き放ちの大きな拝殿は軒唐破風と千鳥破風のコラボ。
階段部分の汚れの落ち方を見ると、正面から入っていく方は少ないことが伺えますね。
馬に乗ってる人と、亀に乗ってる人でしょうか?
ユニークな瓦だったので撮ってみました。
拝殿内部は見上げると結構しっかりとした造りになっていました。
これだけの規模だと柱の数も多いのです。
天智天皇の勅命により創建された延喜式神名の栗太郡八座の一つという由緒ある神社だそうで
建武3年、高師直と比叡山との合戦や織田信長による六角氏攻めでの戦場になるなど、
度々の戦禍にさらされたのだそうです。
瑞垣をめぐらした本殿は1599年に建造され、
三間社流造りで、前室は正面および両側室に菱格子戸が入れられています。
桃山時代後期の建造なので、派手さはありませんが、よく見ると海老虹梁がありました。
江戸時代の建築だったら、この部分は龍の彫刻などで装飾されていて注目する部分ですが
この辺りの本殿建築において目にすることは少ないですね。
この地方の神社・仏閣は戦火に巻き込まれて焼失した後に再建された物が多く、
西暦1570年~1600年という短い期間に建てられているものがほとんどだと推定してます。
逆に言えば、桃山時代の建造物って貴重な存在だし、近江に国重文が点在する一つの理由だと思います。
それゆえに、それぞれの神社の造りが似ているんだと思ってるのですが、
こちらの神社は国重文指定されてる建造物が無いというのは何故なのか?という疑問が残りました...。
御祭神
大己貴之命
鎮座地
滋賀県草津市片岡町
JR草津駅の北4Kmのところに鎮座され、
境内入り口には標柱が建てられているのでした。
※一の鳥居は帰り道に発見しましたが写真はありません。
![イメージ 1](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/u/unkotarezoudaze/20191001/20191001232127.jpg)
神門は瓦葺の四脚門でした。
![イメージ 2](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/u/unkotarezoudaze/20191001/20191001232132.jpg)
通常は築地塀などが備わっているのが一般的だと思いますが
こちらは石垣が用いられているようです。
![イメージ 3](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/u/unkotarezoudaze/20191001/20191001232135.jpg)
吹き放ちの大きな拝殿は軒唐破風と千鳥破風のコラボ。
階段部分の汚れの落ち方を見ると、正面から入っていく方は少ないことが伺えますね。
![イメージ 4](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/u/unkotarezoudaze/20191001/20191001232139.jpg)
馬に乗ってる人と、亀に乗ってる人でしょうか?
ユニークな瓦だったので撮ってみました。
![イメージ 5](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/u/unkotarezoudaze/20191001/20191001232143.jpg)
拝殿内部は見上げると結構しっかりとした造りになっていました。
これだけの規模だと柱の数も多いのです。
![イメージ 6](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/u/unkotarezoudaze/20191001/20191001232147.jpg)
天智天皇の勅命により創建された延喜式神名の栗太郡八座の一つという由緒ある神社だそうで
建武3年、高師直と比叡山との合戦や織田信長による六角氏攻めでの戦場になるなど、
度々の戦禍にさらされたのだそうです。
![イメージ 7](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/u/unkotarezoudaze/20191001/20191001232151.jpg)
瑞垣をめぐらした本殿は1599年に建造され、
三間社流造りで、前室は正面および両側室に菱格子戸が入れられています。
桃山時代後期の建造なので、派手さはありませんが、よく見ると海老虹梁がありました。
江戸時代の建築だったら、この部分は龍の彫刻などで装飾されていて注目する部分ですが
この辺りの本殿建築において目にすることは少ないですね。
![イメージ 8](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/u/unkotarezoudaze/20191001/20191001232155.jpg)
この地方の神社・仏閣は戦火に巻き込まれて焼失した後に再建された物が多く、
西暦1570年~1600年という短い期間に建てられているものがほとんどだと推定してます。
逆に言えば、桃山時代の建造物って貴重な存在だし、近江に国重文が点在する一つの理由だと思います。
それゆえに、それぞれの神社の造りが似ているんだと思ってるのですが、
こちらの神社は国重文指定されてる建造物が無いというのは何故なのか?という疑問が残りました...。